ファランクス(長編)

2010年7月、若狭女子高校の3階の廊下を、ここの生徒である瑞穂(みずほ)と由香里(ゆかり)がおしゃべりしながら歩いていた。

 

瑞穂「へー、なんていうゲームなの、それ?」
由香里「ファランクスっていってさー」

 

2人は最近話題になっている「ファランクス」というオンラインゲームについて話をしていた。
瑞穂の少し前を歩いていた由香里が振り返る。

 

由香里「すっごい面白いんだよー?」

 

だがそこに瑞穂がいない。ついさっきまでいたのに。

 

由香里「瑞穂?」

 

トイレにでも行ったのか?由香里はあたりを見回すが、周辺には誰もいない。

 

由香里「瑞穂?どこ行ったの?」

 

そのとき由香里は気づいていなかった。
由香里のすぐ後ろ、誰かがいる。その「誰か」は不気味に笑い、由香里に近づき、手を伸ばし、由香里に掴みにかかったのだった。

 

その「誰か」は、由香里にそっくりだった。

 

………
……

 

さて、このストーリーの主人公は「水野真琴(みずの まこと)」という、この高校の生徒である。

 

この真琴という女の子は、見た目も中身もこれといった特徴が何もなく、まったく目立たない子だった。
成績は悪いが最悪ではなく、最も注目されないくらいの下位であった。
身長も体型も平均くらいで、地味なボブの髪型で、いつもうつむきがちにしているため、表情が周囲から見てよくわからない。

 

家庭環境もあまり恵まれているとはいえず、塾や習い事などしたことがなく、何かの行事で「賞」を取ることなど、間違ってもありえない。

 

真琴には仲のいい友人がいるが、一度友人関係を作ってしまうと、ずっとそのグループ内にいて、ほかに友人を作りたがらない性格だったので、進級してクラス替えがあると新しく友人を作るのに時間がかかった。
それがうまくいかず、クラスで孤立することもよくあった。

 

おとなしくて孤立しがちなこの子は、校内でいじめに会いやすいタイプだった。

 

7月10日午後4時。まだ梅雨が明けないこの時期、空はどんより曇っていた。

 

すべての授業が終わった後の放課後。
今日は試験があったのだが、真琴の成績は非常によくない。数学のテストが21点だった。
真琴は元気のない表情で、テスト用紙を見ながら廊下を歩いていた。

 

この高校、1年生の教室は1階に、2年生は2階に、3年生は3階に教室があった。
真琴は3年1組なので、3階に教室があり、3階の廊下を歩いていた。

 

真琴(あと半年で大学受験か……)

 

真琴は半年後に大学受験を控えていた。この成績では、後の進路はかなり不安である。

 

この高校は全体が中空の四角形の構造になっており、中心の中庭を囲むように廊下が敷いてあり、その廊下に沿って各教室が配置されている。
3階の西側の廊下に沿って生徒たちの各教室が連なっているため、このあたりはいつも非常に騒がしい。
しかし南側の廊下に沿っては小ホールが配置されており、人通りが少なくて静かである。

 

そのちょうど西側廊下と南側廊下の交差点に真琴が通りかかった時、小ホール前の入り口前にいた新城と一之瀬が真琴に向かって叫んだ。

 

新城「おい、水野!」
真琴「新城さん?」

 

真琴は新城と一之瀬に気が付くと、あわててテスト用紙をかばんに隠した。
新城と一ノ瀬が近づいてくる。2人ともあくどい表情をしている。

 

新城と一之瀬はいわゆる不良生徒で、真琴と同じ3年生だがクラスは違う。

 

新城成美(しんじょう なるみ)は真琴と同じくらいの身長で、体つきも平均的で暴力的な印象はないが、陰湿ないじめをやらかすタイプの不良だった。
知恵が回り、人を操作するのが得意だった。不祥事をもみ消したりするのも彼女の仕事だった。
髪はおとなしい感じのセミロングで、黙っていればあまり目立たない普通の少女に見えるため、その不良行為が発覚しにくかった。
もちろんそれは新城自身が意図した容姿で、つまりは不良行為が周囲にばれないように工夫していたのだった。

 

一之瀬杏奈(いちのせ あんな)は新城よりも背が高く体も大きい、暴力的な不良生徒だった。
男のように髪が短く、その単純な思考と行動から目立ちやすく、入学したころから不良生徒として教師たちから目をつけられていた。
しかし新城とつるむことでその知恵を借り、不良行為が露呈しにくくなったために教師たちもあまり注目しなくなっていた。
そのせいもあってか、一之瀬の立ち位置はさしずめ新城の子分といったところであり、新城のいうことによく従った。

 

一之瀬は真琴に近づいて

 

一ノ瀬「ちょっと付き合えよ」

 

真琴は目をそらした。

 

真琴「今日は早く帰らないと……」
新城「なんだよ、あたしら友達だろ?」

 

もちろんこの2人は真琴の友人などではない。
真琴はうつむいて怯えた顔をしているのだが、この2人はお構いなしである。

 

新城「テスト返ってきたんだろ?見せろよ」

 

新城と一ノ瀬、あざけるようにニヤニヤ嘲笑っている。
真琴は怖がってかばんを背に隠し、うつむいたまま後ずさった。

 

真琴「ごめんなさい、今日は……」

 

そういって真琴は振り向いて逃げようとするが、新城がすばやく強引に真琴の手を捕まえ、無理やりホール前に連れて行った。

 

真琴「い、痛い!手を離して!」
新城「見せろっていってんだよ!」

 

真琴のかばんを新城が取り上げようとする。
しかし真琴が抵抗するのでなかなか取り上げられない。

 

新城「おい、一ノ瀬!」

 

新城が合図をすると、一ノ瀬が背後から真琴を両腕ごと強く抱きしめた。

 

真琴「うあっ!」

 

真琴は動けなくなり、かばんを落としてしまった。
新城は落ちた真琴のかばんを取り上げ、中からテスト用紙を取り出した。
真琴は一之瀬の締め付けから脱出しようとするが、一之瀬の力が強すぎて何もできない。

 

新城は真琴のテスト用紙を見て

 

新城「水野、お前ほんっっとうにバカだな」

 

新城は真琴と一ノ瀬にテスト用紙を見せつけた。テストの悪い点数「21点」がよく見えるように。
一ノ瀬は真琴を締め付けたまま、いかにも馬鹿にしたような口調で

 

一ノ瀬「お前、脳ミソ腐ってんじゃねぇか?」

 

そして大声で、いかにも馬鹿にしたような口調で、周りの生徒たちにも聞こえるように叫んだ。

 

一ノ瀬「あーあ、水野真琴の数学の点数は21点かぁ!」
真琴「やめて!大声でいわないで!」

 

新城はテスト用紙を高く掲げて、わざとらしい大声で

 

新城「水野真琴のテストの点数は21点でしたーーっと!」
真琴「やめて、やめてよ……」

 

真琴は耐えられなくなり、泣き出してしまう。
新城と一ノ瀬は愉快な気分になって嘲り笑っていた。

 

このようなことは初めてではなかった。
新城と一之瀬は真琴の、特に数学の成績が悪いことをよく知っている。
だからテストがあると、よくこうやって真琴を辱めて楽しむのだった。

 

??「ちょっと!あんたたち何してんのよ!」

 

突然声がしたので、一ノ瀬と新城は声のほうへ振り向いた。
一ノ瀬が驚いて真琴を離してしまったので、真琴は声のする方へふらふらと歩いていく。

 

真琴「鏡美(かがみ)ちゃん……」

 

新城「鏡美って……こいつ、川崎鏡美(かわさき かがみ)か……」
一ノ瀬「川崎って、学年成績でいつもトップ10番以内に入ってるヤツか?」

 

鏡美は真琴の親友で、成績のいい優等生だ。
おとなしい真琴とは違い、気の強い性格で、誰に対してもいいたいこともはっきりいえる「しっかりした子」である。
成績がいい上に顔立ちもよく、長いストレートヘアーが印象的なので、校内ではそこそこ目立つ。
同じ学年なら誰でも名前くらいは知ってるくらいには有名だった。

 

鏡美は真琴に近づき、腕をつかんで心配そうな表情で

 

鏡美「真琴!……泣いてるの?」
真琴「ううん」

 

鏡美は真琴の顔を改めて覗き込んだ。

 

鏡美「泣いてるじゃないの!」

 

鏡美は新城と一ノ瀬をにらみつけて

 

鏡美「あんたたち!」

 

新城と一ノ瀬は気まずい表情をしている。

 

新城「ちっ」
一ノ瀬「新城……」

 

不良である新城と一之瀬にとって、優等生でしかも学年ではそこそこ有名な鏡美は「苦手な相手」だった。
新城は後ろを向いてその場から退いた。一ノ瀬は新城を追っていく。
だが少しして新城は立ち止まり、顔だけ振り向いて真琴に向かって

 

新城「お前みたいなバカが、何でこんな優等生と仲がいいのかわかんねぇな」
一ノ瀬「優等生かよ……ムカつくな」

 

新城と一ノ瀬は背を向けて階段のほうへ歩いくのを鏡美はにらみつけていた。
鏡美は真琴のほうを向いて心配そうに

 

鏡美「あの二人にいじめられていたのね?」

 

真琴は無理して笑顔を作った。

 

真琴「大丈夫だから」
鏡美「大丈夫じゃないでしょ!」

 

鏡美はスカートのポケットからハンカチを取り出して、真琴の涙を拭いてやった。

 

鏡美「あんなのにかまってちゃだめよ」
真琴「無理だよ。逃げられないよ……」

 

鏡美は真琴を軽く揺さぶって

 

鏡美「そんなことないから!がんばって、強くなるのよ!」
真琴「う、うん……」

 

鏡美は真琴があの2人からいじめられているのを知っていて、鏡美と真琴が一緒にいるときはいじめられることはない。
しかし鏡美もいつも真琴と一緒にいられるわけではないので、真琴がたまに1人でいると、こうしていじめられてしまうことがある。

 

鏡美は、真琴があの2人に絡まれるのをはっきり拒絶すればいいと思っているのだが、真琴にはそれがたいていの場合にできなかった。

 

鏡美は真琴から手を離して直った。そして優しい表情になって

 

鏡美「……帰ろっか」

 

真琴も少し元気になれた。
真琴と鏡美は階段を下り、玄関の下駄箱前に向かった。

 

鏡美「夢見(ゆめみ)!」