主席の生徒

首席の生徒

 

1870年3月10日。
イギリス北部、スコットランド地方のエジンバラ市立高校で、高校入学試験の合格発表があった。
エジンバラ市立高校は、この地方では有名な進学校だった。

 

ジャック・クリストファーは15歳の中学3年生で、午前中は彼の在籍するウェイバレー中学校の卒業式を終えたところだった。
そして午後、ジャックは父親のクリストファー氏と2人で入試の合格発表を見るため、馬車でエジンバラ高校に来たのである。

 

ジャックの家は貴族の家系で、公立の学校であるウェイバレー中学では珍しく、大変裕福だった。
専属の家庭教師を付け、よい参考書も簡単に手に入り、勉強に専念する環境を十分整えることができた。
そのためジャックは中学校では非常に成績がよかったし、試験ではよく1位の成績を収めた。
だから周りの人たちは、ジャックが当然エジンバラ高校に入るものと思っていた。

 

父親であるクリストファー氏の職業は弁護士であり、この地方では有力な人物の一人だった。
職業柄、誰にでも分け隔てなく接したが、ひそかに下層階級の人々を軽蔑していた。
彼自身が貴族ということもあり、この階級社会の象徴的な存在であった。
当然彼はプライドの高い人で、特に金持ちを尊敬したし、自身もそれに見合う金持ちであった。

 

だがクリストファー氏のプライドを十分満足させるには、金持ちというだけでは足りなかった。
彼の考えでは、一人息子のジャックは当然優秀な生徒であり、ましてや劣等生などということは断じて許せなかった。
クリストファー氏はジャックが常に学年で1位の成績であることを要求し、またジャックもそれが当然だと考えた。
ジャック自身もプライドの高い性格だったが、それ以上に家の名を傷つけてはならないという圧力のほうがずっと大きかった。

 

そのジャックが、万が一にでもエジンバラ高校の入学試験に落第したとしたら、クリストファー氏はまったく面目が立たない。
このことは入学試験の何週間も前から、クリストファー氏の最も大きな心配の種だった。
今日も朝から、息子の合格発表のことで頭がいっぱいで、卒業式の学長の訓話などはまったく耳に入らなかった。

 

朝からクリストファー氏がイライラしていることは、ジャックにもはっきり感じられるほどだった。
いよいよエジンバラ高校に到着し、馬車を降りるとき、クリストファー氏は怒鳴るような調子でジャックに言った。

 

「いいか!受験に失敗したなどということがあったら許さんからな!」

 

もし合格者の欄に自分の名前がなかったら?
ジャックはそのようなことは考えたくなかった。
仮に落ちたとしても、ほかに入学できそうな進学校はいくつかあるし、自分の将来に影響するほどの問題ではなかった。
そのようなことより、父が自分にまったく期待しなくなるのではないかという不安のほうが強かった。
父と、この家に見放されることのほうがつらかった。

 

だが掲示板に合格者の名前が掲示されたとき、そのような不安はすぐに吹き飛んだ。
ジャック・クリストファーという名前は、欄の一番左上の、目立つ場所に書かれていたのである。
ジャックとクリストファー氏はすぐにその名前を見つけることができた。

 

「エジンバラ市立高校 進学科 合格者 ジャック・クリストファー」

 

その名前が間違いなくジャックであると確認したとき、クリストファー氏は安堵の表情を浮かべてジャックに言った。

 

「お前が受験に落ちるなど、万が一にも余計な心配だったよ。お前が我が家の誇りを傷つけるようなことをするはずがないのだからな」

 

ジャックは胸を張って、こう切り替えした。

 

「当たり前じゃないか。僕はクリストファー家の人間なんだよ?」

 

クリストファー氏は「よくやった」と満足そうにうなずいた。

 

そのとき、背後からクリストファー氏を呼ぶ声がした。

 

「クリストファーさん!」

 

二人が振り向くと、そこにいたのはジャックの担任のデービス先生だった。

 

「これはデービス先生。息子がいつもお世話になっておりまして」

 

クリストファー氏が丁寧に挨拶をすると、デービス先生は興奮した様子で言った。

 

「いや、私も正直驚きました!まさか首席で入学してしまわれるとは!」

 

「はい?首席……ですと?」

 

クリストファー氏が聞き返すと、デービス先生は掲示板を指差して言った。

 

「おや、ご存知ありませんでしたか?あれは成績の優良な者から順に並んでいるのです」

 

ジャックの名前が欄の一番最初に書かれているのは、ジャックが最も成績がよかったということを意味していた。

 

「いや、私としたことが……そんなことにも気づかなかったとは!はっはっは!」

 

クリストファー氏とデービス先生は顔を見合わせて笑った。

 

「わが校からこれほどの成績優秀者が出たのは、学校始まって以来かもしれません。何しろ1番と2番が私の生徒だとは!」

 

デービス先生の言葉に、クリストファー氏が返した。

 

「ほう、ほかの中学校を出し抜いて、2番もウェイバレーからですか?」

 

デービス先生は後を振り向いて言った。

 

「このアリス君です」

 

会場の人ごみにまぎれてジャックもクリストファー氏も気がつかなかったが、そこにはジャックと仲のいい、同級生のアリス・アンジェラスが立っていた。

 

「ア、アリス?」

 

ジャックが驚いて尋ねると、アリスはいつもの落ち着いた調子で、まずこう言った。

 

「ジャッくん、おめでとう」

 

「そ、それ……やめろって言ってるじゃないかぁ……」

 

ジャックはそっけない返事を返してしまった。
それ、というのは「ジャッくん」という呼び方のことである。
アリスは親しみを込めてこのような呼び方をしているのだが、ジャックにとっては照れくさい呼び名だった。
せめて周りに人がいるときは名前そのままで呼んでほしい、とジャックはアリスに言っているのだが、アリスのほうはあまり聞いていないようだ。

 

「やっぱりジャッくん、すごいよね」

 

「そ、そんなことないよ!普段は僕よりアリスのほうがいい点数取ってるじゃないか。今回だってさ……」

 

家庭教師の先生がいなかったらアリスに負けていた、と言いかけたが、ジャックはその言葉を飲み込んだ。
ジャックに専属の家庭教師を付けたのは、受験の2ヶ月前からで、クリストファー氏の計らいだった。
専属の家庭教師を付けるのは非常に金がかかる。

 

アリスの家は自分の家ほど裕福ではない、とジャックは思っていた。
なぜなら、書店でアリスがいくつか参考書を立ち読みすることはあっても、買ったのを見たことがなかったからだ。
今日だって、ジャックは馬車でここまで来たが、アリスは歩いて来たのに違いなかった。
アリスの靴はいつものようにひどく汚れていて、紐を通す部分がところどころ破れていた。

 

だがそんな身分や階級の違いなどは気にもならず、ジャックはアリスのことが大好きだった。
そしてアリスも自分のことを好きなのに違いない、と思っていた。
アリスは背が低く、童顔で垢抜けず、田舎くさい女子生徒だったが、ジャックにはそれがかわいらしく、清楚可憐というふうに見えた。
また頭脳明晰であるにもかかわらず控えめであり、身分の違いはあっても、ジャックにとっては申し分のない「お嬢様」であった。
ジャックは高校でアリスと同じクラスになれたことがたまらなく嬉しかったが、それを言葉に出すと恥ずかしいので、何も言わなかった。
この地方では最も入学が困難といわれているエジンバラ高校で、ジャックとアリスが成績トップとその次を勝ち取ったことは、まるで運命の糸のようなもので結ばれているかのように、ジャックには思えた。
この娘はいつか自分の妻になるだろう……とジャックは思った。

 

クリストファー氏と話していたデービス先生は、ジャックのほうを向かって言った。

 

「そうだ、ジャックくん。君は首席での入学だから、高校での3年間の学費はすべて免除される。親孝行だね!」

 

「……え?」

 

ジャックはそんなことは聞いたことがなかったが、アリスは知っていた。

 

「ジャッくん、そんなことも知らなかったの!?」

 

アリスが突然大きな声で言ったので、ジャックはびっくりして答えた。

 

「う、うん。だってさ、一番になれるなんて思ってなかったんだよ」

 

「ふーん、そうなんだ……」

 

アリスのその声の調子は、なんとなくジャックを非難しているかのように聞こえた。
金持ちの生まれであるジャックより、アリスの学費が免除されたほうがよかったのではないか?という考えはジャックにもあった。
だがそれよりも首席で入学することで、父の名誉と家の名誉を守ることのほうが重要だった。
しかたがない、というのはジャックの答だった。
そしてジャックは、この問題についてはそれ以上考えまいとした。

 

 

それから約一ヵ月後の4月8日、エジンバラ市立高校で入学式が行われた。
式が始まる5分前にジャックは高校に到着し、すぐに式場に向かった。
式が始まり、担任教師によって各生徒の名前が呼ばれたが、奇妙なことが起こった。アリスの名前が呼ばれなかったのだ。
アリス・アンジェラスという名前は、姓名ともに「A」で始まるため、女子の中では必ず最初に呼ばれる名前だった。
ジャックは何かの聞き違いか教師の手違いかと思い、そのときはこのことについて気にしなかった。
だがその後、学科ごとに各教室に別れたときにジャックは異常に気づいた。
進学科は1クラスしかないため、アリスとジャックは同じクラスであるのだが、教室にアリスの姿はなかったのである。
最初ジャックは、アリスは風邪でもひいたか、あるいは何か悪いものでも食べておなかを壊したのだろうと考えた。
それでも心配だったので、学校の帰りにアリスの様子を伺うため、アリスの住んでいる寄宿舎へ寄っていこうと考えた。

 

エジンバラ高校とウェイバレー中学校は国の計らいで提携し、特に経済的に困窮している両学校の女生徒たちを専用の寄宿舎に住まわせることを許可していた。
アリスは中学生のときにこの寄宿舎に住んでいたので、特別な理由がない限り、高校に進学してもここに住んでいるはずである。
もし住所が変わっていれば、寄宿舎の管理人に尋ねればわかるはずだ。
ジャックはアリスがこの寄宿舎に住んでいることは知っていたが、行ったことはなかった。
この寄宿舎は女子生徒とその親族以外は、基本的には入れないことになっていたからだ。
そしてジャックは寄宿舎の管理人にアリスのことを尋ねた。

 

「アンジェラスさんはロンドンの実家に帰りましたよ」

 

寄宿舎の管理人はそう答えた。

 

「帰ったって、どういうことです?いつここへ戻ってくるんですか?」

 

ジャックがさらに尋ねると、管理人は不審な顔でジャックをにらみつけた。

 

「あんたアンジェラスさんの何なんだね?」

 

管理人はそれ以上は答えなかった。
アリスがロンドンへ帰った、というのはどういうことだろうか?
ジャックはアリスの実家がロンドンにあることは知らなかった。
一時的に帰省しているのだろうか?
それでも入学式に顔を出さないというのは奇妙なことだ。
ジャックはエジンバラ高校の担任の先生に会いに行き、アリスのことを尋ねると、驚くべき返事が返ってきた。
アリス・アンジェラスという名前は進学科だけでなく、エジンバラ高校のどの学科の名簿にも載っていなかった。
ジャックは教師に尋ねた。

 

「アリスは僕と同じウェイバレー中学の出身です。確かに一緒に合格してるんです」

 

教師はこう答えた。

 

「入学者の名簿はあるが、入試の合格者の名簿はないんだよ。もしかしたらそのアリスって子は、入試には受かったけど入学しなかったのかもしれないね」

 

「ど、どうしてです?」
「さあ……知らないね」

 

教師にその理由はわからなかった。
ジャックにはそのようなことは信じられなかったが、名簿にそのように記載されている以上、信じるしかなかった。
なぜアリスがエジンバラ高校に入学しなかったのかも気になったが、アリスが自分に何の相談もなしに入学を辞退したこともジャックを落ち込ませた。
だがとにかく、大好きなアリスが突然いなくなってそのままではジャックの気がすまなかった。
次の日が休みだったため、ジャックはすぐに単身でロンドンへ出向いた。
だが肝心のアリスの住所はわからないままだった。
ジャックは一日中ロンドンの街の中をあちこち探し回ってみたが、アリスらしい人物に出会うことはなかった。
アリスがなぜ突然ロンドンに帰ってしまったのか?
アリスの行方はわからず、失踪の理由がわからないまま二年の歳月が流れた。

 

 

高校二年生の春休み、ジャックは父親と一緒にロンドンへ来る機会を得た。
クリストファー氏の仕事の都合で、ロンドンの郊外の別荘に二週間ほど滞在することになったのである。
特に滞在する二日目、クリストファー氏の仕事仲間で行われるパーティーに息子を同行させ、仕事仲間たちに紹介するのが氏の主な目的であった。
ジャックは高校に主席で入学し、さらに入学してからも成績優秀だったので、父親はそのことを周囲に自慢したかったというのが本音であった。

 

そのパーティーは高級ホテルを貸し切り、豪勢に行われた。
パーティーが進み、すでにクリストファー氏はジャックの紹介を終え、仕事仲間たちと雑談をしていた。
ジャックは話す相手もおらず、退屈していた。
それでパーティーの内容が一段落したとき、夜風に当たろうとホテルを抜け出した。
時刻は午後7時を過ぎており、すっかり暗くなっていた。
あてもなくぶらぶら歩き、中心街から少し離れた商店街の裏通りに出たとき、ジャックは突然知らない女から声をかけられた。

 

「私はサラ。お兄さん、私と遊んで……いきませんか?」

 

これが娼婦のお誘いであることがジャックには理解できた。
女は頭巾をかぶっていて、またあたりが暗いこともあり、ジャックにはその顔がさっぱり見えなかった。
ジャックにとって売春は忌むべきものだった。
そのようなことをするのは下層階級の人間で、自身に誇りのない下劣な人間のすることと思っていた。
女の顔がよく見えないことが、さらにそのおどおどした口調がさらにジャックを不愉快にさせた。
ジャックが女を無視して歩き出すと、女は何も言わずについてきた。
女がまだ誘ってくるので、ジャックは振り向いて言った。

 

「向こうへ行けよ!」

 

そのときちょうど街灯が、頭巾の中の女の顔を照らし出したので、ジャックは女の顔を見ることができた。
その顔はジャックの知っている顔だった。

 

「あ、アリス?」

 

本当に女がアリスなのか確かめようとして、ジャックが女の顔を覗き込むと、女は顔を隠してその場から立ち去った。
ジャックはすぐに女を追いかけたが、見失ってしまった。

 

「いや……人違いだ。アリスがこんなことをするはずがない」

 

しかしアリスがロンドンに引っ越したことと、ロンドンであの女に出会ってしまったのは嫌な偶然だった。
ロンドンにはエジンバラよりもずっと大勢の人がいる。だからアリスそっくりな人間がいても不思議ではない、と自分に言い聞かせたが、不安は拭いきれなかった。
アリスの名前を呼んだとき、しつこかった女の誘いがぴたりと止まって逃げ去ったのは、やはり彼女自身がアリスだったからだろうか。
その後、別荘に帰ってからもジャックはあの「サラ」と名乗った女のことばかり考えていた。
彼女がアリスと同一人物かどうか、確かめずにはいられなかった。

 

 

ジャックがサラと出会ってから一週間、夜の間はジャックはずっとサラを探してすごした。
クリストファー氏は毎晩帰りが遅く、クリストファー氏が戻るころにはジャックも戻っていたので、ジャックが父親に不審がられることはなかった。
その夜も、ジャックはロンドン郊外の裏通りにいる娼婦たちにサラのことを尋ねていた。
すると娼婦の一人、マリーと名乗る女がサラを知っていると言った。

 

「あんたね?最近サラのことを聞いてまわっているっていう坊やは。そんなにサラと遊びたいの?」

 

ジャックは興奮して、マリーの肩をゆすって言った。

 

「彼女はどこにいるんですか!?教えてください!」
「ちょっと、ゆすんないでよ!」

 

マリーは怒ってジャックの手を振り払ったが、しばらくして落ち着いてこう言った。

 

「サラは私たちの娼館の仲間よ。あんた、そんなにサラと遊びたいの?」
「いいえ、そうじゃなくて、彼女はぼくの昔の友達かもしれないんです。本当にそうなのか確かめたいだけなんです」

 

マリーはあまりいい顔はしなかった。

 

「確かめてどうする気?」
「連れて帰ります」
「へえ……」

 

マリーはジャックの全身をじろじろ見ながら言った。

 

「あんたはずいぶん金持ちそうね。家のメイドさんにでもしてあげるのかしら?」
「いいえ、そんなつもりはありませんけど」

 

マリーは皮肉で言ったつもりなのだが、ジャックがそれに気がつかないようだったので、付け加えて言った。

 

「あんた、あたしたちがなんでこんな仕事しているのかわかってるの?」

 

そういわれて、はじめてジャックは自分があまり歓迎されていないことを知った。
マリーたちは経済的に困窮しているからしかたなくこのようなことをしているので、決して彼女たちの望んだ生活ではないことだと知った。
マリーの表情と言葉には、金持ちへのねたみと、自分たちの力では決して貧窮を脱することができないのだというあきらめがあった。
ジャックはそれを知って、なんとなくマリーに申し訳なく思い、うつむいてしまった。
それを見たマリーは微笑して言った。

 

「まあいいわ。あんたいい人そうだし、ついてきなさいよ」

 

マリーに案内されたのは「フランシスカ」という娼館だった。
娼館に入る前、マリーはジャックに言った。

 

「ここが私たちの働いているところよ。でもサラは最近は体調不良で休みがちだから、ここでは会えないかもしれないわ」
「体調不良って、どこか悪いんですか?」

 

ジャックが不安そうに尋ねた。

 

「さあ。かなりヤバい病気らしいけど、詳しくは知らないわ」
「そんなにひどい病気なんですか?」
「店長が少し前『サラはもう使えない』って言ってたのよ。少なくともまともに働けるような状態じゃないってことね」
「そんな……なんで……」

 

ジャックは不安そうに尋ねた。
もしサラがアリスだとしたら、アリスはそれほどひどい病気にかかっているということになる。

 

「あの子は働きすぎたのよ。店長が無茶をさせるから……」
「店長?ここの店長のせいなんですか?」
「あ……いまのことは言わなかったことにして!」
「店長って……」
「ほら、もう入るわよ!」

 

マリーがそれ以上話を掘り下げてほしくなさそうだったので、ジャックはそれ以上店長について尋ねはしなかった。
だがジャックにとって、ここの店長はなんとなく信頼できない、悪どい男のような気がした。
マリーが娼館の裏口から入ると、中にはその店長と思われる一人の男がいた。

 

この中年の男はエリック・アンダーソンといい、マリーはこの男がこの娼館の店長であり、経営者である、ということしか知らなかった。
だが働いている娼婦たちの何人かは、この男が大変な権力者かもしれないと思っていた。
彼の人使いは荒っぽく、あまり稼がない娼婦はすぐに解雇したし、まるでこの娼館が倒産してもたいした損害がないかのように振舞っていたからである。

 

エリックはマリーに言った。

 

「なんだ、その坊やは?」
「この子がサラに会いたいっていうのよ」

 

エリックは続けた。

 

「そうじゃねぇ。そいつは客なのかって聞いてるんだ」
「客ではないんです」

 

マリーが答えると、エリックはいきなりマリーを殴った。
マリーは部屋の机に肩を打ちつけ、床に前のめりになって倒れた。
ジャックは何が起こったのがわからず、呆然としていた。
エリックは荒々しく叫んだ。

 

「そんなことを言ってるんじゃねぇ!客でもねぇ人間を連れ込んで、お前は何遊んでんだって言ってんだよ!」
「あ、遊んでいたわけじゃ……」
「口答えはいらねぇよ!」

 

マリーはぐっとエリックをにらみつけたが、エリックは尊大な態度でマリーに言った。

 

「ほう……俺に逆らうとは、お前どうなるかわかってんのか?いっておくが、お前のように大して売れない娼婦なんざいなくたってぜんぜんかまわねぇんだぜ?」
「……」

 

マリーはエリックから視線をそらせてうつむいた。
エリックは続けた。

 

「だがお前の子供はどうなるのかねぇ?別れた旦那は帰ってこねぇし、どうやって飯を食わせるつもりだ?」
「す……すみませんでした……」

 

マリーが頭を下げて謝ると、エリックは満足したようだった。

 

「わかったらさっさと仕事場に戻んな!」

 

マリーは立ち上がり、部屋を出て行った。
次にエリックはジャックのほうを向いてこう尋ねた。

 

「遊んでいくかい?今日はそのつもりで来たんじゃないかもしれないが、いつでも歓迎しますよ」
「いいえ、けっこうです」

 

ジャックが即答で断ったので、エリックはジャックが客になりそうにもないことを察知し、ぞんざいな態度でこう言った。

 

「じゃあ帰ってくんな。悪いが忙しいのでね」

 

ジャックは外に出された。
サラがいなかったのは残念だったが、ジャックにとっては十分だった。
とにかくサラがこの娼館にいることがわかったし、ここで待っていればいつか出会えるに違いないと考えた。

 

ジャックが気になったことの一つは、エリックの娼婦たちに対するひどい扱いようだった。
やはりマリーの言ったとおり、この男がサラに無茶をさせたせいでサラはひどく体を壊したのだろうか?
先ほどは驚いてしまって呆然と見ているだけだったが、エリックのことを思い出すとなんだか無性に腹が立った。
もしサラがアリスだとしたら、この男がアリスを病気にさせたことになる。
法が許すなら、この男を力いっぱい殴ってやりたいと思った。

 

ジャックが帰ろうとすると、マリーが表口から出てきた。

 

「ちょっと待って!これ!」

 

マリーはジャックに紙切れを渡した。

 

「これは?」
「それはサラの住所よ。友達かもしれないんでしょ?いってあげなさいな」
「ありがとう、マリーさん。それと、さっきはすみませんでした」
「どうして謝るのかしら?」
「さっき、僕のせいであの男にぶたれたでしょう?」

 

マリーは微笑して答えた。

 

「やっぱりあんたはいい人ね。金持ちにも優しい人がいるんだ……知らなかったわ」

 

ジャックはそのように言われたのは初めてで照れくさかった。

 

「じゃあ私は戻るわね。早く戻らないとまたぶたれるから」

 

そう言うとマリーは戻っていった。
ジャックにとってサラの居場所がわかったのは幸運だった。
ジャックは紙切れに書かれたサラの住所へ向かって歩き出した。

 

それにしても、このあたりでは金持ちがまるで悪者のように扱われているらしいことにジャックは驚いた。
ジャックが今までに見てきた貴族や富豪の人たちは、まったく普通の良心的な人たちばかりだった。
だがそれは表面的なものであって、もしかするとロンドン、いやこのイギリス全体・世界全体で見ると、自分たちの知らないうちに金持ちが貧乏人を搾取しているのかもしれない、とジャックは思った。
もしかすると自分でも気づかないうちに、間接的にあのような女たちを搾取して自分が生きているのかもしれない、とさえ思った。
それはともかく、いまは何よりもサラが何者なのかを確かめることが大事だった。

 

ジャックはマリーの紙切れに書かれた場所へやってきた。
そこはいわゆるスラム街の一角で、サラの住所というのはアパートの一室だった。
そのアパートはひどく古ぼけていた。
ジャックがアパートに入ろうとしたとき、一人の男に呼び止められた。
その男はむさくるしい格好をしており、風呂に入っていないためか、くさいにおいがした。
男は唐突に質問してきた。

 

「お前、ここへ何しに来た?」

 

ジャックはこのうさんくさそうな男を相手にしたくはなかったが、もしかするとこのアパートの住民で、サラのことを知っているかもしれないと思った。

 

「サラという子に会いにきたんです。知りませんか?」

 

男はしばらく考えて、こう答えた。

 

「ああ、知ってるぜ。ついてきな」

 

男がサラのことを知っているようなので、ジャックはこの男に会えたのは幸運だと思った。
男はアパートの裏地へ向かって歩き出した。
なぜアパートの中ではなく裏地へ向かうのか不審に思い、ジャックは男に質問した。

 

「あの、サラは……」

 

そう言い終わる前に男はジャックに振り向き、力いっぱい拳をジャックの腹に突きこんだ。

 

「うっ……」

 

ジャックは痛みのあまりうずくまって動けなくなってしまった。

 

「ムカつくんだよお前……いい服着やがって。どこの金持ちだ、坊や?一人で来るとは間抜けな野郎だぜ」
「サラ……は……?」
「さあ?聞いたこともねぇ名前だな」

 

だまされたことを知り、ジャックはこの男に怒りを抱いたが、苦しくで声も出せなかった。
男はジャックのポケットから財布を取ろうとして体中をまさぐったが、ジャックはまったく金目のものは持っていなかった。

 

「なんだ、何も持っていねぇじゃねえか。じゃあその上等の服でもいただくか」
「な……」

 

男はうずくまっているジャックから無理やり服を剥ぎ取ろうとした。

 

「やめ……ろ……」

 

そう言いかけたとき、突然女の声がした。

 

「やめてください」

 

ジャックが振り向くと、そこにはあの女……サラがいた。

 

「……」

 

男はサラの顔を見ると苦笑し、ジャックに向き直って言った。

 

「ふん、この娘に免じて今日は見逃してやるよ」

 

男は去っていった。
ようやく腹の痛みが治まってきて、立ち上がることができた。
ジャックはサラに感謝の言葉を述べた。

 

「ありがとう……あの男は、いったい……」
「ここの人たちはお金持ちにはつらく当たるけど、貧乏な人には優しいの。私のような人間の言うことはよく聞いてくれるわ」

 

サラはジャックの背中を優しくさすった。
だが痛みが完全に治まって思考が冷静になってくると、いくつもの疑問と不安が湧き上がってきた。
一番の疑問は、本当に娼婦サラがアリスなのかということだった。
こればかりは、この女の口から直接聞かないことには信じられないことだった。

 

「アリス……きみはアリスなのか?」
「……」

 

女は無言でうなずいた。

 

それは確かにアリスだった。だが以前とはずいぶん違った印象だった。
アリスは2年前のころよりもずっと痩せこけていて、ひどく顔色が悪く、元気がないように見えた。
17歳のはずだが、25歳くらいに見えた。
目つきが厳しく、眉間にしわがよっていた。
アリスは言った。

 

「どうしてここがわかったの?」
「マリーさんっていう人から住所を聞いて……」
「そう……じゃあ、もう知っているのね。私がサラという名前であそこで働いていることは」

 

アリスは力なくうつむいた。
ジャックはここでようやく2年前にアリスが失踪したことについて理解した。
アリスは高校入学試験に合格はしたが、経済的に困難だったので入学を辞退し、ロンドンの実家へ帰って働いていたのだ。
だがこうしてアパートに住んでいるということは、おそらく家を売ってしまい、それでもまだお金が足りなかったのだろう。
恐ろしく経済的に追い詰められていたに違いなかった。
そうでなくては、アリスがこのような仕事をするはずがなかった。

 

ジャックは、アリスがまるでまったく別の世界に行ってしまったような気がして、ひどく空しい感覚に襲われた。
もう昔のような親しい関係に戻ることはできないだろう。

 

「アリス、このアパートに住んでいるの?だったら中で……」
「中には弟と妹たちがいるの。あの子達きっとびっくりするから」
「そっか……アリスが働いてその子たちの面倒を見ていたんだ」

 

アリスがしゃべりづらそうな顔をしていたので、あまり質問ばかりしていてはアリスを傷つけてしまうと思い、ジャックはしばらく黙ってアリスを見ていた。
またアリスは言った。

 

「……ごめんね」
「何が?」
「いえ……いろいろ……」

 

アリスはしばらくうつむいて黙っていたが、やがて遠くを見るようにして語りだした。

 

「高校受験の少し前、父が死んだの。母は私が小さいころに亡くなってて……」

 

そのようなことはジャックは何も知らなかった。

 

「それで兄弟たちを養うためにロンドンへ来て、でもまだずっとお金が足りなくて、こうなったの」

 

昔は夢中になるくらいアリスに恋心を抱いたジャックだったが、そのような情熱もいまやまったく冷めてしまった。
それはジャック自身にとっても残念に思われたし、驚くべきことであった。
その代わり、哀れみといくつかの罪悪感が残った。
貧困者に対する哀れみと、自分が金持ちである罪悪感であった。
特に罪悪感のうち最も強いものは、ジャックがこの街についてからずっと感じ続けていた呪いのようなものだった。
ジャックは思い切ってアリスに尋ねようとした。

 

「アリス……あのさ、もし僕が……」

 

そう尋ねようとしたとき、急にアリスの足元がふらついて、次の瞬間倒れ始めた。
ジャックがすばやく反応してアリスを抱きかかえたので、アリスが地面にたたきつけられることはなかった。
アリスの話に夢中で忘れていたのだが、アリスは仕事が続けられないほどの病気にかかっていたことをジャックは思い出した。

 

「ごめんなさい……」

 

アリスは消えそうな声で言った。
ジャックはアリスからアパートの部屋を聞きだし、アリスをアパートに部屋に連れて行った。
部屋は狭く暗かった。
アリスの弟と妹が合わせて3人そこにはいたが、夜も更けてきたのでもう眠っていた。
ジャックはアリスをベッドに寝かした。
アリスの体はひどく熱く、高熱があるようだった。

 

「アリス、ちょっと待ってて。すぐに医者を呼んでくるから」

 

ジャックは部屋を飛び出し、すぐに別荘近くにある医院を尋ねた。
事情を話すと、医者はすぐについてきてくれた。
またジャックは別荘の自分の部屋にいったん戻り、自分の小遣いをありったけ、父の財布からも札を何枚か抜き出して持ち出した。

 

再びアリスのアパートに戻ったとき、アリスの部屋の玄関で初老の女が一人、怒鳴り声を上げていた。
ジャックは女に言った。

 

「なんなんだよ、あんた!いまアリスが大変なんだ、どいてくれ!」

 

だが女はどかなかった。

 

「お前こそ何だい?用事はあたしの用が終わってからにしておくれ」
「何だよ用事って!いまそれどころじゃ……」
「ここの人は家賃を3ヶ月も滞納しているんだよ。これ以上待ってたらあたしの生活のほうが危なくなるんでね!」

 

断固として女は譲ろうとはしなかった。
ジャックは財布から札をがむしゃらに掴み取り、女に手渡した。

 

「おや!あんたがかわりに払うってのかい?そりゃまあ……あたしとしてはお金が入るんなら文句は言わないけどねぇ、ちょっと法的な手続きが……」
「ほら、もういいだろ!帰った帰った!」

 

女はしぶしぶ帰っていった。

 

ジャックと医者がアリスの部屋に入ったとき、アリスは眠っていた。
医者は直ちにアリスの診察を行った。
ジャックは医者に伝えた。

 

「突然倒れたんですよ!それにひどい熱があった。触ってもわかるくらいに!」

 

医者は答えた。

 

「これはひどい……」
「ひどいって……どうなるんですか、アリスは?」

 

医者はアリスが眠っていることを確認し、小声で答えた。

 

「長くは続かないでしょう」
「それは……もうすぐアリスが死ぬってことですか!?」

 

医者は小さくうなずいた。

 

「そんな馬鹿なことが……あるはずないじゃないか!」

 

医者は言った。

 

「今日はこのまま安静にして寝かせておいてください。明日、病院で精密な検査をしましょう。それでは」

 

医者は帰っていった。
それから少しして、アリスが目を覚ました。

 

「アリス、起きてたの?」
「うん……」
「アリス、明日病院へ行こう!検査すればわかるさ、こんな若さで死ぬような病気にかかってるわけがない!」

 

ジャックは元気付けるような調子で言ったのだが、アリスは目を伏せたまま答えた。

 

「いいの。こうなるって、前からわかっていたから。何人ものお医者様から同じこと言われてたから」

 

どうやらアリスが近いうちに死ぬというのは、どうしても覆せない事実らしい。
ジャックはアリスになんと声をかけていいのかわからなかった。
ふいにアリスがしゃべりだした。

 

「私、ジャッくんのお嫁さんになりたかったな」
「……え?」
「ごめんね……迷惑よね」

 

突然アリスからの愛の告白を受けて、ジャックはもうほとんど冷めかけていたアリスへの恋心が再びよみがえってくるのを感じた。
だがすでに何もかも遅かった、ということがジャックにはよくわかっていた。
仮に……奇跡が起こってアリスの病気が治ったとしても、一度娼婦として生計を立てていた女を妻に迎えることをジャックの父親が許すはずがないし、ジャックにとってもそれは耐え難い不名誉だった。
それでもアリスが好きだという気持ちは抑えられないほどに強く、葛藤の中でジャックは苦しんだ。
だがその情熱もまもなく、不可能、という一文字で次第に冷めていった。
後に残ったのは、崩れ去った理想への懐古と、このような悲劇を生み出した社会への憎しみだった。
そしてこのような社会を作り出した人間の一人、搾取する側の人間の一人が自分であると考えていたジャックは、自分を苦しめている罪悪感の正体をつかむために、アリスにこう尋ねた。

 

「アリス……僕が受験で1位なんて取らなければ……かわりにきみが主席で入っていれば授業料が免除されて……」

 

そう言いかけたが、アリスがさえぎった。

 

「違う、違うよ。ジャッくんは何も悪くないよ」
「本当はアリスのほうが頭がよかったんだ!僕に家庭教師の先生とか参考書とか……お金がなければアリスにはぜんぜんかなわなかった!だからアリスのほうが授業料を免除されるべきだろ?そうだろ?」
「いいの……ジャッくん、もういいの……」

 

そういい終えると、疲れたのかアリスは眠ってしまった。

 

ジャックは考えた。
誰が自分たちから理想を奪ったのか?
誰がアリスをこんなふうにしたのか?
この悲しみと怒り、どこにぶつければいいのか?

 

ジャックはアリスの部屋を飛び出し、娼館フランシスカへ向かった。
裏口から荒々しくドアを開けて入ると、そこには先ほどと同じく店長のエリックがソファーに座っていた。

 

「お前はさっきの……」

 

エリックが言い終える前に、ジャックはエリックの胸元をつかんで叫んだ。

 

「お前がアリスをあんなにした!」

 

ジャックは獣のようにエリックに襲い掛かり、床に押し倒すと、何度も何度も拳骨で殴った。

 

「殺してやる!死んでアリスに詫びろ!」

 

何度も顔面を殴られたせいで、エリックの顔は血まみれになり、膨れて元の形がわからないくらいだった。
ジャックの拳も骨が折れて肉が裂け、血まみれだった。
辺りに飛び散る血はどちらのものかわからなかった。

 

やがて事態を知った館の娼婦たちが警官に通報し、ジャックは捕らえられた。
容疑は「殺人未遂」だった。
エリックはジャックに激しく殴られ、あちこちが腫れていたが、命にはなんら別状はなかった。
だがエリックは「あいつは確かに俺を殺すつもりだった」と証言したので、殺人未遂事件となったのである。

 

さらに容疑を重くしたのは、エリックの境遇と関係があった。
エリックは、フランシスカの何人かの娼婦が思っていたとおり、大変な権力者と関係があった。
具体的には、エリックはイギリス首相の従兄弟だった。

 

またこの時世、国全体の治安が不安定で、国は国家権力に対する反逆に対して神経質になっていた。
そこでこのような暴力事件は一種のテロリズムであると裁判で審査された。
当然これは大変な重罪であった。

 

ジャックに課せられた刑罰は「死刑」だった。
この判決に対しては、ジャックの父親であり有力な弁護士だったクリストファー氏もまったくの無力だった。

 

 

ロンドンの中央刑務所のすぐそばに公開処刑台があった。
処刑台には死刑囚に刑を施すための絞首台が一つ設置してあった。
ジャックに判決が渡された翌日の朝、そこで処刑は行われた。

 

処刑を見に来た観客は数百人いた。
観客たちは興奮し、目をぎらぎらさせて、何か訳のわからないことを叫んでいた。
ジャックが後ろで手首を縛られ、死刑執行人に連れられて絞首台の前に立ったとき、ジャックは何もしゃべらなかった。
抵抗もせず、うつろな目で執行人のなすがままになっていた。
ジャックは絞首台の前で跪かされた。
そして刑が執行される前に、ジャックのために司祭が呼ばれた。
最初、司祭はジャックに向かって一、二言慰めの言葉をかけたのだが、ジャックは聞いていなかった。

 

「何か言い残すことはありますか?あればお聞きいたしましょう」

 

司祭がこのように言ったとき、初めてジャックは顔を上げた。
ジャックは言った。

 

「……本当に……聞いてくれるんですか?」
「お聞きします」

 

司祭が真剣な顔でそう答えたので、ジャックは司祭のその言葉を信用し、しゃべりだした。

 

「一つ聞きたいことが……」
「何です?」
「些細なことと思うかもしれませんが、僕にとってこれがすべての始まりだったのです。僕の通っている高校では、入学試験で主席だった者は授業料は免除されます。それで……」

 

ジャックは司祭に質問した。

 

「授業料の免除制度というのは何にためにあるのですか?誰のためにあるのですか?」

 

司祭は死ぬ直前にそのような質問をされたことがなかったので少々戸惑ったが、冷静に答えた。

 

「それは、優秀ではあるけれども経済的に困窮している学生のためにあるのではないでしょうか」

 

ジャックは言った。

 

「優秀さは金で買えるんです、司祭さま!ある優秀な学生がいました。その子は頭がよく大変な努力家だったけれども、金がなくて参考書が買えない、家庭教師もつけられない。結局、お金のある人間が授業料免除制度の恩恵を受ける!」

 

ジャックは続けた。

 

「学校だけじゃない。たぶんどこにでもこんなことが起こっているんです。司祭さま、どうか貧しい人たちを助けてあげてください。そして……」

 

ジャックがそう言いかけたとき、突然ジャックの頭が激しく蹴り飛ばされた。
ジャックは衝撃で吹き飛んで、処刑台の上を転がった。
司祭が驚いて振り向くと、そこにはエリックがいた。

 

「もっと痛ぶってやりてぇがしかたねぇ。今日はこのくらいで勘弁してやらぁ!」

 

その声を聞いたジャックは、声の主がエリックであると気づいた。

 

「お前は……お前は……!」
「あの世でサラとじゃれあってな、坊主!」

 

それを聞いたジャックは、突然ぶるっと震えて立ち上がり、吠えるかのように激しく叫んだ。

 

「お前のようなヤツがいなければこんなことにはならなかったんだ!金持ちなど、みんな死んでしまえ!」

 

それが少年の最後の言葉だった。
死刑囚が暴れだしたため、死刑執行人は直ちに刑を執行した。
首に縄がかけられ、目隠しをされ、少年が縄につるされた人形と化すまでに10秒かからなかった。

 

その後、ロンドンである熱心な司祭が、この事件をもとにした逸話をミサで話した。
彼がとても真剣に話したので、その説教を聞いた人たちは皆心を打たれた。
その中に、偶然ロンドンへ視察に来ていたエジンバラ市長も含まれていた。
それを聞いた市長は、エジンバラ市にあるすべての中学、高校で、経済的に困難な学生の授業料を免除する施策を敢行した。
だがそれが原因でエジンバラの財政は圧迫されたので、授業料免除の施策はたったの2年しか続かなかった。
ロンドンの司祭の話に心を打たれた人々も、その話の内容などわずか数週間ですっかり忘れてしまった。