ぐうたら犬

ぐうたら犬

 

犬に狩りをさせる習慣のある、ある小さな村があった。
その習慣は昔からのもので、いまも続いている。
人口も少なく、自給自足に頼りがちなこの村の人々は、犬の狩りによって少しでも多く食料を確保していた。
犬に狩らせる動物はイノシシやタヌキなどの動物である。
犬の飼い主が犬を連れて山に入り、目標の動物を見つけたら、飼い主が犬に攻撃するように合図をする。
すると犬は獲物に向かって突進、獲物を捕まえて噛み殺し、主人のところへ持ってくる。
特に3月から4月にかけては狩りが盛んであった。
冬眠がさめて腹をすかせた小動物が山を降りてくることが多く、収穫時だからである。

 

ある家に、シロという中くらいの大きさの柴犬がいた。
シロは犬の年齢では若く、働き盛りの年齢だった。
だが飼い主である家の主人がシロに狩りをさせようとしても、どうしても狩りをしたがらなかった。
理由は単に狩りをするのがいやなだけである。
つまり、シロは狩り犬としては大変な怠け者だった。
昔からこの調子だったので、仮にいまシロが狩りをしたとしてもまったくうまくできないだろう。
小さいころから怠けていたので、力も体力も平均の犬に比べればずっと弱かった。

 

シロの飼い主はこの家の主人で会社員だった。
主人は妻と息子との3人暮らしだった。
息子のほうは30歳であったが、働いておらず、ニートと呼ばれていた。
この息子は家にいることが多かったので、シロとよく遊んだ。
それでシロはこの息子のことが好きだった。

 

4月初旬、動物たちは発情し、真っ盛りであった。
シロは鎖につながれていて外出もできず、交尾する相手もいないので、今日も退屈していた。
家の庭でいつものようにゴロゴロしていた。
すると隣の家の庭で、その家で飼われているオス猫と、どこから連れてきたのかもう1匹メス猫がじゃれあっているのが見えた。
このオス猫はいつもはシロと同じように、一日のほとんどを寝たり遊んだりして過ごしていた。
だが今日はその猫は激しく発情し、メス猫と交尾していた。
シロは猫の交尾などに興味はなかったが、あまりにも楽しそうにじゃれあっているので声をかけてみた。

 

シロ「なあ、あんたら……そんなに楽しいのかい?」

 

オス猫「そりゃもう、楽しいにゃん!」
メス猫「最高だにゃん!」

 

オス猫とメス猫は、それはもう必死といった感じで交尾していた。
シロは何が楽しいのかよくわからず、興味もなくなったのでいつものようにゴロゴロすることにした。
ただ隣でニャアニャアうるさいのが少々不快だった。

 

その日の夕方、いつものようにシロは家の主人に散歩に連れて行ってもらった。
道中、別の飼い主に連れられて散歩しているメス犬に出会った。
それを見たシロは、いままでに感じたことのない激しい衝動に駆られた。
シロは激しく興奮、発情し、我慢できなくなってメス犬に飛びつこうとした。
だが主人が首輪を引いてシロを制止したので、メス犬に飛びつくことはできなかった。
それでも衝動を抑えることができず、シロはなおもメス犬に飛びつこうとした。
それを見た主人は、いい加減強く制止する必要があるとみなし、強く首輪を引き、激しくシロに怒鳴った。
シロはびくっと震え、おとなしくなった。
シロは主人を本気で怒らせると、どんな恐ろしい仕打ちを受けるかを理解していた。
以前、一度だけ主人を本気で怒らせたことがあった。
そのとき、シロは3日間も食事を抜かれた。
それはまったく耐えられないことだった。
主人はメス猫の飼い主に謝った。
それからいつものように散歩を続けたが、シロは落ち込み、うなだれて歩いていた。

 

シロは、自分の主人は大変よくできた人だと思っていて、いままで特に強い不満を抱いたことはなかった。
十分な食事を保証してくれるし、毎日散歩に連れて行ってくれる。
誰が見てもよい主人であることに間違いない。
だがこのときシロは考えた。主人はなぜあのメス犬と交尾することを許可してくれないのか?
この鎖がなければ、今すぐあのメス犬のところへ行き、気が済むまで交尾できるだろう。
それだけじゃない。もし今後いっさい人間たちに拘束されず、自由に外の世界を走り回れたらどんなにすばらしいか。
この家の生活はあまりにも決まりきっており、退屈すぎた。
だがこの鎖は硬すぎて噛み切ることはできない。

 

夜になり、主人の家族はすでに就寝していた。
シロがうとうと眠りに入りかけたとき、何者かが家に入ってきた。
あたりが暗いので顔がよく見えなかったが、人間の男のようだ。
シロはこの不審者に吠えるべきだと思ったが、なぜか吠える気にならなかった。
なんとなく、この人間は自分の味方になってくれるような気がしたからだ。

 

男はシロに近づいてきた。
そしてシロのすぐそばに来て、ポケットからビンを取り出し、置いた。
そのまま男は家から出て行ってしまった。

 

あの人間が何のためにこのビンを置いていったのかわからなかったが、シロはこのビンに興味を抱いた。
ビンを見ると、中には何か液体が入っていた。
ビンのふたは上から軽くはめてあるだけで、シロでも外せそうだった。
シロはビンのふたをはずした。
中の液体は臭いがなく、透明だった。
これは何に使うのか?
飲むためか、何かを洗い流すためか、わからなかった。
もしかすると毒かもしれないと思って、シロは慎重にビンの外側をいじっていた。
だが鼻の先でつついたとき、ビンは倒れ、中の液体は半分近くこぼれてしまった。
だが次の瞬間、驚くべきことが起きた。

 

ビンの液体はこぼしたときに鎖にかかってしまった。
すると液体がかかった鎖の部分が、溶けてなくなってしまった。
この液体が物体を溶かす液だと理解して、シロは驚き恐怖したが、偶然鎖が溶けてしまったのは都合がよかった。
シロは喜んだ。これで自由になれる!
まず思いついたのは、あのメス犬のことだった。
シロはさっそく家を出て、メス犬を探し始めた。
夕方の散歩でメス犬の歩いていった方向へ歩いていくと、しばらくしてわずかだがメス犬の匂いがしてきた。
その匂いを元に歩いていくと、ある家にたどり着いた。
その家の犬小屋を見ると、犬小屋の中にあのメス犬がいた!
いまは眠っているようだ。
シロが家に侵入すると、シロの匂いをかぎつけたメス犬は驚いて起き上がった。

 

メス犬「あなたは夕方に出会った……!どうしたの、こんな夜更けに?」
シロ「きみに会いに来たんだよ。ねえ、いいことがあるんだ。ここから出て、僕と外の世界に出よう!」
メス犬「外の世界って……わたしは見てのとおり、鎖につながれているわ」
シロ「ちょっと待ってて」

 

シロはいったん家に戻り、先ほどのビンをくわえてやってきた。
ビンにはまだ液体が半分残っている。
シロはメス犬の鎖に液体をかけてやると、液体のかかった部分の鎖は溶けてなくなった。

 

メス犬「すごいわ!でも外の世界に出るって、なぜそんなことするの?」
シロ「人間に飼われていて毎日退屈だと思わないか?それに鎖につながれていたら好きなときにきみと会うこともできないじゃないか」
メス犬「そうね、確かにそのとおりだわ。わたしもあなたとずっといっしょにいたいわ」
シロ「決まりだね!じゃあまず、一緒に人間の目に付かないところまで逃げよう!」
メス犬「でも外の世界は何が起こるかわからないわ。食べ物とか寝る場所とか、毎日確保できる自信があるの?あるならついていくけど……」
シロ「まかせてよ!全部ぼくに任せておきなって!」
メス犬「ほんとう?」
シロ「ほんとうだよ。さあ、一緒に逃げよう!」
メス犬「ええ……わかったわ!そうだ、言い忘れてたわ。わたしはトロっていうの」
シロ「ぼくはシロ。よろしく!」

 

シロとトロは一緒に家を出て、一番近くの山へ向かった。

 

山へ向かう途中、道端に奇妙なものが落ちているのが見えた。
シロは気になって、その物体をよく見ようと近づいていった。
それは猫の死体だった。

 

シロ「う……うわっ!」
トロ「どうしたの、シロ?」
シロ「な、なんでもないよ。先に行ってて」

 

シロはトロを先に行かせ、じっくりその死体を見てみた。
死体には頭と脚がそのまま残っていたが、胴体、特に腹の部分がごっそりなくなっていた。
その顔を確認してシロは驚くと同時に恐怖した。
それは今朝、隣の家で交尾していたオス猫だった。
近くの草むらと道路には爪で激しく引っかいた痕があった。
おそらく非常に力の強い動物に押さえ込まれ、生きたまま腹を食われて絶命したのだろう。

 

ところでもう一匹のメス犬はどこへ行ったのだろう?
辺りをよく見てみると、草むらに何本も骨が落ちていた。
骨にはまだわずかではあるが、肉がついていた。
ほかの部分はどこに落ちているのか発見できなかった。
どうやらこれがメス猫の死体らしい。
この2匹を襲った動物はひどく腹が減っていたに違いない。
おそらく最初にメスのほうを襲い、まだ満腹にならなかったのでオスのほうも襲ったのだ。
最初にメスを襲ったのは、脂肪が多くて美味いからだろう。

 

トロ「シロ、早く行きましょうよ!」
シロ「え?う、うん……」

 

トロにせかされてシロは先に進むことにした。
だが猫を襲う動物がいるということは、犬も襲うかもしれない。
シロは不安を拭いきれなかったが、トロと一緒にいるうちにそのこともやがて忘れてしまった。

 

山の中へ入ると、人気はほとんどなくなった。

 

シロ「ここまでくればもう朝になっても人間には見つからないだろう」

 

それからシロとトロは気が済むまで交尾した。
2匹ともあまりに夢中になりすぎて、気がついたら朝になっていた。
シロは実に満足したが、長時間の運動で腹が減っていた。

 

シロ「食べ物を探してくるよ。トロはそこで待ってて」

 

そういうと、シロは食料を探しに山の中をうろつき始めた。

 

しばらく歩くと、ネズミが3匹ほど、群れをなして走っているのが見えた。
シロはこれを食事にしようと追いかけたが、1匹も捕まえられない。
すぐに逃げられ、見失ってしまった。
シロはここで、人間たちが教えようとしていた「イノシシ狩り」を真面目にやろうとしなかったことを初めて後悔した。
もっと真面目に狩りの練習をしておけば、もっと簡単に食料を手に入れられただろう。
シロはやる気をなくし、とぼとぼ歩き出した。

 

またしばらく歩くと、幸運なことに、けがをしたイノシシに出くわした。
イノシシのけがは重傷で、もう歩くこともままならず、ぐったりしていた。
病気ではなく、何者かに攻撃を受けて負傷しているようだったので、食べても大丈夫だろう。
とにかくいまの空腹はこれでしのげる。
シロは喜んで、イノシシをくわえてトロのいるところに戻った。

 

だがそこに待っていたのは、信じられない光景だった。
トロの死体がそこに転がっていた。
あまりに突然の出来事にシロは唖然としていた。
何が起こったのかわからなかった。
トロの死体をよく見ると、その死に方は昨晩見た猫と同じ殺され方だった。
頭と脚だけ残されていて、腹が丸ごとえぐられている。

 

それに気がついてシロは恐怖で震えた。
昨日あの2匹の猫を殺し、ついさっきトロを殺した者は近くにいる。
トロが殺されたのが悔しいとか、そういう気持ちは恐怖でかき消された。
とにかく怖かった。
このままここにいれば、自分も殺される!
シロは立ち上がり、ここから離れようとした。

 

??「まだいたのか。ワシらの縄張りに入ってきた者が」

 

シロは声のするほうへ振り向いた。

 

そこにいたのは野生のオオカミだった。

 

シロ(殺される……)

 

シロは逃げようとしたが、あまりの恐怖で腰が抜けてしまい、その場に座り込んで動けなくなってしまった。

 

オオカミ「若いメス犬がいたからオス犬もいるかもしれんと思ったが、お前か」

 

シロ(やっぱりトロを食ったのはこいつだ!)

 

オオカミ「それにしても……首輪つきか。人間に飼われ、ろくに狩りをすることもできん貧弱な犬、力もない、速く走ることもできない、ただ毎日ごろごろ怠けているだけの犬がこのようなところに迷い込むとはな、愚かなヤツよ」

 

シロは何とか言葉を振り絞った。

 

シロ「た、助けて……くれ……」

 

オオカミ「助けて?その言葉は人間に教えられたのか?われわれにはそのような言葉は存在しない」

 

オオカミはシロに近づいてきた。

 

もう終わりだ……

 

 

ドン! ドン!

 

 

突然大きな破裂音がすると同時に、オオカミは倒れて動かなくなった。
音のしたほうを向くと、そこには猟銃を持った人間がいた。
もう一人いた。それはシロの主人の息子だった。

 

シロ「……助かった」

 

息子とシロは抱き合って喜んだ。
こうしてシロは救出され、息子とともに家に戻った。

 

再びシロは鎖につながれ、飼い犬としての生活をすることになった。
だがもうシロは、逃げ出して外の世界で生きようとは二度と思わなかった。
トロが殺されたのは残念だったが、それ以上に外の世界が恐ろしかった。
自分がもっと強い犬なら、外の世界で自由に生きられるし、メス犬とも好きなだけ交尾できるかもしれない。
だがいまの自分はなんと貧弱なのだろう。
それは恥じるべきことのように思えた。
あのオオカミの恐ろしい、それでいて弱者を軽蔑する眼差しは、まだシロの脳裏に強く焼きついていた。

 

だがシロは考えた。
結局、あのオオカミも人間に殺された。
あの2匹の猫も、トロもオオカミも死んでしまったが、最後に生き残ったのは自分一匹だけだった。
自分が動物の中で優れているから生き残ることができたのだ。
あのオオカミよりも優れているから生き残ることができたのだ。
人間に飼われていること自体、誇れることで、優れていることだ……シロはそうやって自分を納得させた。
無能で弱い犬でかまわない、それでいいのだ。
ここで人間たちに飼われて生きていこう。

 

 

それから1ヶ月が過ぎた。
親からニートと罵られていた主人の息子は、就職するために都会へ出て行った。
家には夫婦二人とシロだけが残された。
ある晩、家の中でこのような会話がなされた。

 

妻「景気が悪くなってほんとにきついわ……食費を削ろうかしら?」
夫「おいおい、冗談だろ?勘弁してくれよ……」
妻「本当にきついのよ。ねえあなた、あの犬けっこう食べる割にはちっとも役に立たないわよね?明日にでもどこかに捨ててきてくれない?」
夫「わかったよ」